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『「古事記」に秘めた思い』斉藤登

著者の斉藤登氏の奥付の経歴を見ると歴史の専門家ではない。
IT関連・データ分析のコンサルティングをされていた(いる?)そうだ。
長い事不自然と思っていた古事記と日本書紀がなぜ同時代に編纂されたかに関して、氏の見解は明快だ。

古事記は神様向け、日本書紀は人間向け。
ああそうかと首肯せざるを得ない見解だと思った。

祝詞にしろお経にしろ、この世のものではない「なにか」に現世の言葉で唱えるとまるで呪文(まさにそのままだが)のようにヒトの言葉としては極めて不自然な抑揚や発声の仕方だなと思う。

でもよく聞いていると普通の言葉で話していることがわかる。
神様仏様に伝えるときは特別なコトバを用いるのは経験しているから、「記」は神様向け「紀」は人間向けというのが何とはなしに腑に落ちるということかもしれない。

専門家の書ではないからある意味発想が自由で、大国主・アマテラス・スサノオなど、あたかも人格をまとった神様たちは、実際の複数の人格の投影として把握するというのも、専門家による書籍の説より素直に受け止められる。

神道における「神社」の成立の考察などは、古墳がその起源であろうと単純井思っていた自分の考えでは不十分で、神道のこれまでの在り方や日本人の関わり方の経緯でどのようにそれらが「神社」として祭祀の対象となっていったのかを再度考えさせられる。

地理気候的な要件が最も重要なのではないかと個人的に思っていたが、実際には人がかかわることでいくつかの集団の交流の中で、半ば必然として、政治体制の上に宗教的権威を置いたという見解も興味深い。

現代へと連綿として続く、権力なき権威としての天皇家。実際には7世紀以降武力を持ったことはほとんどないだろうが、それでも武力を持った勢力が排除できなかった「なにものか」を考えると日本人論として面白い。

経歴によれば2011年の東日本大震災に際し、日本人の信仰観・価値観と古代の人々の共通言語としての「古事記」の見直しをされ始めたとのこと。
執筆時58歳から59歳くらいの事だろうか。
今同じ年齢になってきて、これまでとこれからなど思う時、今一度古事記をきちんと読んでみる気にさせる書であった。

おすすめ度☆☆☆☆ くらいあげたい内容である。
前年なのは、推定や想像による部分と、事実に基づく考察部分の書き分けが今一つで、論証というよりエッセーになっていたこと。真麻小野文読みやすいのだが。

2019/01/23

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