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「保科正之」中村彰彦

両親の故郷「会津若松」の松平家藩祖「保科正之」の評伝であります。
歴史家ではなく小説家の中村彰彦の筆による。

戊辰戦争の真実或いは明治維新の真実はおそらくあと100年ぐらい経て、薩長藩閥体制が終焉でもしない限り明らかにされない部分が残るのであろうと思ってる。

おそらく孝明天皇は暗殺されたと思ってるし、そもそも当時の薩長に日本国家をどうするなどという戦略はなく、徳川による幕藩体制の打倒と自らの権力掌握の戦術しかなかっただろうとしか思えない。
あ、今の日本で薩長藩閥なんて関係ないと思ってるとヤバいですよ。
後世今の時代を何と呼ぶか知らんが僕なら薩長藩閥時代と呼ぶかもしれんし。

まあこちら戸籍にも出生地会津若松ってあるから(母の実家)身びいきもあるけど、いろいろ考えて当時の薩長は、帝国主義的な状況において諸外国からの圧力に対応することとと、財政難に苦しむ幕府政権が漸進的に改革を進めようとしているすきを見て、関ヶ原の恨みという私怨をもって暴力革命をあえて起こし、権力を奪取したと500年後に教科書に書いてあると思う。しらんけど。

おそらく、孝明天皇は先例を守ること以外に、皇室の存続を可能にする術を知らなかったために攘夷に拘ったのだと思うが、もしも薩長が権力奪取を考えずに、政権側が考えていたような諸侯参加型の政権作っていたらどうなったかなどと考えると面白い。

幕末の政権というのはそれまでの慣例重視で行き詰まり、また現実に御家人と町民の間で株売買によって人の交雑が進んでいたこともあり、相当に変化しそうな雰囲気があった気がする。
大政奉還などという王手費飛車取りみたいなことやられて反政権側がちゃぶ台ひっくり返した結果が明治政府という認識。

その見方で見る立場の僕にすると、本書で指摘の通り、藩祖保科正之がまさに神様になって、直接血縁もない松平容保が京都守護職に就かざるを得ない状況にしてしまったというのは気の毒というか、変化は必要だよって思いがした。

2代将軍秀忠は関が原への遅参で暗愚の将のようにも言われているけれど、そうでもなかろうと思っている。創業社長の家康の意を汲んで創業の勢いから、平常営業にするのは大変だと思う。秦の始皇帝も劉備も平常営業に至る前に終了しちゃってるし。
とはいえ恐妻家というのは事実なのだろうか。

正之が庶子として長く隠されていたという記述は何かで見た記憶があるが、本書ではそのあたりきっちり記録を追って、お江さんもかなり早くに知っていていびりまくってる様子が興味深い。
考えてみれば、お江は家康がやっつけた秀頼の母茶々の妹である。しかも旦那秀忠との娘千姫は、甥っ子である秀頼に嫁していたのだ。
そもそも父浅井長政は秀吉にやられて、継父・実母のお市も秀吉の手にかかったうえで姉は親の敵の側室になっているのだ。

現代に置き換えて考えることが難しい様な姻族血族関係である。


女性のネットワークを考えると単に秀忠が恐妻家ということではなく、お江には大阪方に人脈があったと考えるべきだろうし、秀忠がそうした縁を避けた庶子をもうけたというのはもう少し突っ込みがあってもいいのではなかろうかとも思う。

本書で盛んに「名君」と持ち上げているが、幕末結果としてその遺訓により、お家は滅亡させたが、著者の指摘通りナンバー4を秀忠が作っていたおかげもあって、宗家は絶えなかっただとさすれば、秀忠の野望ともいえるかななどと妄想する。

近現代史を考えるとき、保科正之という人物はもっと注目されてもいいのではなかろうか。もちろん本書で取り上げているような儒学的な立場での善政もあっただろうが、せっかくナンバー4と指摘しながら、維新及びその後とのことはなかったのが物足りない気がした。中村氏の他の著作知らないので少しあたってみようかな。

☆4

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