「もうひとつのジェノサイド長春の惨劇『チャーズ』」  遠藤誉  

アイキャッチの著肖像は主宰されている中国問題グローバル研究所のものです。

実業之日本社

中共のニュースでよく見かける遠藤誉氏の原点のような内容の本である。出版の経緯はヤフーに著者が書いている内容がある。消されてしまうかもしれないので全文転載しておく。

6月27日にコラム<許せない習近平の歴史改ざん_もう一つのジェノサイド「チャーズ」>を書いたところ、中国の古い友人や知人から連絡が殺到し、注意喚起を受けた。中国のネットで遠藤批判が広がっているという。

◆『もう一つのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』に関するコラム
 6月27日、コラム<許せない習近平の歴史改ざん_もう一つのジェノサイド「チャーズ」>を書いた。リンク先をご覧いただければお分かりになるとは思うが、アクセスなさらない方もおられるかもしれないので、繰り返しになるが、もう一度略記する。

 1946年夏、終戦後に中国に遺された日本人約百万人の日本帰国(百万人遣送)があったが、このとき中国吉林省長春市にいた私の一家は、父が技術者であったために帰国を許されなかった。1947年になると、国民党政府に最低限必要な日本人技術者を残して、他の日本人は強制的に日本に帰国させられた。

 最後の帰国日本人が長春からいなくなった1947年晩秋、長春の街から一斉に電気が消えガスが止まり、水道の水も出なくなった。

 共産党軍による食糧封鎖が始まったのだ。

 餓死者が出るのに時間はかからなかった。

 行き倒れの餓死者や父母を失って街路に這い出した幼児を犬が食べ、その犬を人間が殺して食べる。しまいには、中国人だけが住んでいた(満州国新京市時代に)「シナ街」と呼ばれていた区域では「人肉市場」が立ったという噂を耳にするようになった。

 私の家からも何人も餓死者が出て、このまま長春に残れば全員が餓死すると父は判断し、1948年9月20日、私たち一家は長春を脱出することになった。その前日、一番下の弟が餓死した。

 このとき長春は二重の鉄条網で囲まれ、その鉄条網の間の真空地帯を「チャーズ」と称した。

 国民党側のチャーズの門をくぐって国民党軍に指示され、しばらく歩くと、餓死体が地面に転がっていた。餓死体はお腹の部分だけが膨らんで緑色に腐乱し、中には腐乱した場所が割れて、中から腸が流れ出しているのもある。

 共産党軍側のチャーズの鉄条網の柵近くに辿り着いた時は、暗くなっていた。

 ここに座れと指図したのは、日本語ができる朝鮮人の共産党軍兵士だ。

 脱出の時に持って出たわずかな布団を敷いて地面で寝た。

 生まれて初めての野宿だった。

 翌朝目を覚まして驚いた。

 私たちは餓死体の上で野宿させられたのである。

 見れば解放区側(共産党軍側)にある鉄条網で囲まれた包囲網には大きな柵門があり、共産党軍の歩哨が立っているが、その門は閉ざされたままだ。

 一縷(いちる)の望みを抱いて国民党側の門をくぐった難民はみな、この中間地帯に閉じ込められてしまったのである。

 水は一つの井戸があるだけで、その井戸には難民が群がり、井戸の中には死体が浮かんでいる。

 死んだばかりの餓死体をズルズルと引き寄せて、中国人の難民が輪を作り、背中で中が見えないようにして、いくつもの煙が輪の中心から立ち昇った。

 用を足す場所もない。死体の少なそうな場所を見つけて用を足すと、小水で流された土の下から、餓死体の顔が浮かび上がった。見開いた目に土がぎっしり詰まっている。この罪悪感と衝撃から、私は正常な精神を失いかけていた。

 4日目の朝、私たちはようやくチャーズの門を出ることが許された。

 父が麻薬中毒患者を治療する薬を発明した特許証を持っていたからだ。

 解放区は技術者を必要としていた。

 このとき父には父の工場で働いていた人やその家族、あるいは終戦後父を頼りにして帰国せず、父が面倒を見ていてあげた家族も同行していたが、その中にご主人は餓死なさって、奥さんと子供だけが残っていた家族もいた。

 すると、いざ出門となった時に、共産党軍の歩哨の上司がやってきて、「遺族は技術者ではない!」として、この親子だけを切り離して出門を許可してくれなかったのだ。

 父は八路軍の前に土下座して、「この方たちは私の家族も同然です。どうか、一緒に出させてください・・・!」と懇願した。

 しかし共産党軍兵士は、土下座して地面につけている父の頭を蹴り上げ、「それなら、お前もチャーズに残れ!」と、あおむけに倒れた父を銃で小突いた。

 父は断腸の思いでチャーズをあとにする決意をした。

 父の無念の思いを、私は日本帰国後何十年かした日の父の臨終の言葉で知った。

 仇を討ってやる!

 その思いで書いたのが『チャーズ 出口なき大地』(1984年)だが、何度復刻版を出しても絶版になり、このたび『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』として復刊した。

 一方、2017年12月に中国共産党が管轄する中国人民出版社から『囲困長春』という本が出版されている。中国共産党の非人道的行為は完全に隠され、あくまでも「国民党政府が悪いので多くの餓死者を招いた」としか書いてない。おまけに共産党軍は「9月11日から、チャーズ内の全ての難民を解放区に自由に出られるようにした」と書いてある。

 嘘だ!

 生き証人を騙すことはできない。

 習近平政権になってから、歴史を改ざんし中国共産党を美化した長春包囲作戦が新たに出版されたということは、習近平政権が歴史を改ざんしたということになる。この類の本は最終的には中央政府の「国家新聞出版広播電影電視総局」(2013年までの新聞出版総署)が許認可権を持っているからだ。だからこそ<許せない習近平の歴史改ざん_もう一つのジェノサイド「チャーズ」>というタイトルでコラムを書いた。

◆中国から連絡が殺到!
 ところが、それからしばらくすると、いきなり中国各地というか、さまざまなレベルや種類の友人あるいは知人から連絡が殺到した。直接電話してきた人もいれば、スマホのメッセージに送ってくる人、あるいはパソコンにメールしてくる人など、一斉に動いたので、よほど何かあったのだろう。

 どうやら、上掲のコラムが中国語に訳されて中国のソーシャルメディアなどで流れたらしい。慌てたように忠告してきたその内容は、次の2点において共通していた。

 ●チャーズに関して、習近平が歴史を改ざんしたと書いたのか?

  習近平が東北、長春の歴史など知ってるはずがないだろう?

 ●友人だからこそ言うが、習近平を誹謗するようなことは書かない方がいい。身のためにならないので、やめた方がいい。

 そこで私は答えた:

 中国では中国共産党の歴史に関わるような本は、すべて新聞出版総署で出版の可否を審査する。私のチャーズの本の中国語版出版に関しては、1980年代半ばから約30年間にわたり中国の数知れぬほど多くの出版社に当たってきた。特に東北地域の出版社の社長は「実に素晴らしい!真実が書いてある。今なら何とかなるかもしれない」と言ってくれたが、結局は新聞総署まで行って不許可になった。

 新聞出版総署は習近平政権になってから国家新聞出版広播電影電視総局に改称したが、これは言論に関する全てを、より広範囲にわたって監視監督をするようになったということを意味する。天安門(六四)事件だって、習近平は認めてないではないか。

 中国共産党に不利な史実は全て改ざんし、それを指摘したものは逮捕されるのが中国だ。だからこそ私は言論の自由がない中国に見切りをつけたのだ。私はもう二度と中国に行かないから逮捕されることはない。心配には及ばない。

◆中国の思想統一の深さと恐ろしさ
 連絡してきたのは友人知人たちなのだから、もちろん悪意はない。むしろ本気で私の身の安全を思ってくれたからこそ、息せききったように「忠告」してきたのである。

 しかし、その真剣さは、あまりに絶望的な思いを私に抱かせた。

 思想統一というのは、ここまで根深く個々人の思考を支配してしまっているのか。

 偶然に中国のあちこちから一斉に連絡があったということは、ほぼ全ての庶民に中国共産党による思想統一が徹底して染みわたっていることを意味する。

 1950年代初め、私は中国を侵略した国家の人間の一人であるとして、天津の小学校で激しいいじめに遭い、自殺を試みたことがある。そのいきさつに関しては拙著『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』の後半で詳述した。

 いたたまれない屈辱感の中で生きることを選ぶのは限界だった。

 この一斉連絡は、あの時の苦しさを思い起こさせ、ふと、理論物理の研究を手放し、80年代初期に中国人留学生を助けるための道を選んでしまった人生に、救われない悔恨を覚えた。

 もう中国分析はやめようか。

 中国と関わらないところで生きていく道を選んだ方がいいのだろうか。

 中国は変わらない。

 中国共産党一党支配の恐ろしさは限りなく深い。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/09f4c0c498b6768e87adb64e408e82122db52592

著者が幼いころの出来事であり、内容の正確さはどこまでのものかは判然とはしない。
ひょっとすると反中共のプロパガンダかもしれない。
著者の中国への愛情ともいえる普段の文章を読んでいると、どもそうではないと信じた方がよいだろうとは思う。

長春の包囲戦と凄惨については中共も認識しているのだから、言い方としては事実に争いはなく、誰が犯人かみたいな話ではある。また、外国の侵略と内戦が同時に進んでいて、権力闘争が起きているときには国家そのものがないに等しいので、国民も存在せずにハダカの出自によってカテゴライズされる人間がいるだけの話なのかもしれない。

著者の意図は幼いころの忘れがたい出来事を記録しておくことだと思うが、時代を経て検証していくことによって、その意味は読む者にとって受け取る意味は変わってくる。
今東欧で起きている戦争や中東で起きている戦争でも、起こり得るし現に起きているかもしれない。

ヒトは目的のためにどこまで残酷になれるのかということと、それでもどのような状況でも他者を思いやる人も、自分のために他者を踏み台にする人もいるということ、極限状況での出来事は、ヒトとは何かを考えさせる。

本書の記述は内容それ自体が貴重と思うが、それ以上に現代的な意味でその情報を隠蔽したり、デフォルメしたりということが起こりうるということを思い知らされる。
何でも実際に見ることはできないし、このところAIの技術進歩で見たもの聞いたものも信頼できない状況では、何を信じていいのか。
今のところ最高権力としての国家なのか、陰謀論的に言えばグローバルな何者かがいて情報を操作しているなどという言説にも一定の説得力があるよう感じさせられるのも、実際に起きているからなのだろう。

64天安門事件も長春の悲劇も歴史の中で発掘されるときまで闇の中。
何もかの国に限ったことではないだろうが。
今日自分に起きたことの記録がもしかすると大事なのかもしれないなどとも思ったりするのである。

☆3

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