
調子あまりよくなくても、お寺に行く日なので朝からそのつもりだったのだが、木曜日ということで諸々お仕事が終わらなくて、15時ごろになってしまった。
コープでお花かって、トボトボとお寺へ行く。もう夕暮れの雰囲気なので季節の移ろい感じるね。
本堂の入り口も閉じているなとは思ったが、帰りまで正面の門が閉じているの気づかなかった。
庫裏の方から入ったせいだ。
亡父は永代供養墓に眠っているのだが、メリットはいつ行ってもたいていお花が上がっているということかもしれない。今日は大きなユリの花が供えられていた。僕はいつも通り菊の小さな花だけど。
今日はバアサンがとめどなコープで買い続ける線香を持ってきた。
お寺にて分けてくれるので、お花の片付けなどの意味も込めていつもそうしているのだが、さすがに自宅に線香が山住になっていて置き場所に困るようになってきたので持って行った。
安かったから頼んだっていつも言うのだが10箱近くあってどうすんのよこれ、って感じなのだ。
家から近いのはメリットだが考えてみると年に30回くらい行ってることになる。
通り道だかし、気持ち落ち着くしいいのだが別に信仰心がないのにこんなに行く人も少ないだろう。
最近外国人特にイスラム今日の人たちが土葬の墓地を要求しているなどというニュースを目にしたが、日本は基本的に土葬認めてないのでどうかと思う。
キリスト教も基本的には肉体を維持する土葬なのだろうが、日本では仮装してるのかな。
復活が肉体的かどうかってのは宗教観で異なるのだなと思いつつ、まあ日本なんでその国の法律に従ってねとは思う。
公共のことはその国の習慣や法を尊重できないのなら来るべきではないだろうと思う。
その昔の日本、仏教伝来以前は火葬という考えはなかったのだろう。そうでなければ黄泉比良坂の神話は出てこない。持統天皇あたりから火葬始まった説があるようだが、すごく象徴的であるなとは思っている、天武朝は結局断絶して天智の系統に戻ってるのではあるが、その天武朝で火葬が始まったていうのもなんだか象徴的。
僕は子供のころだが、父方の曾祖母のようなおばあさん(実際はどういう人かよく知らない)がなくなったとき土葬に立ち会った記憶がある。
墓地に出かけて穴掘ってたら頭蓋骨でてきて「○○さんだ」とか言って気がする。60年近く前だけどまだ土葬認めてたのかしらね。
自分ももうそちらの方が近くなったが、まだもう少し現世で足掻かなきゃならん。
来世とかよくわからん今をどうにかしていくだけ。それだけだね。