
原因不明というのは、ある事柄が起こる理由がわからないということではあるが、たいていの場合、本当は原因はわかっていて当事者が経験がないか知識がないかで不明だと考えるのだというのが本当のところなんではないかと思う。
いま、うちのベランダのプランターで育っている南瓜について、当初勢い良く伸びて最初に身を付けた株は途中うどん粉病にやられてすっかり勢いがなくなり、せっかく付けた実は野球のボールくらいからしばらく大きくなっていない。
一方、全然雌花を付けないで雄花ばかり咲いていた株は、今や勢いよく伸びていくつも実をつけ始めている。同じようにうどん粉病にやら手ていたのだが、克服したようである。
ほぼ同じ場所に植わっているのに、差がついていて理由は僕にはわからない。
もともと怪しい八百屋で買ってきたカボチャを食べるときに出た種なのでルーツは同じはずなんだが、陽当たりや通風などの条件も同じようなもののはずなんだが、何かが違っていたのだろう。
しいて言えば使っているプランターが大きい方が今は元気がいい。
多分理由はその辺にありそうな気はする。
詳しい人ならおそらく理由が不明ということにはならないのだろう。
いま、熊本や千葉で災害が続いて起こり、いつ何時自分もそうしたことが身に起きらないとは限らず、報道見ていても心が痛む。
少し気になる言葉遣いをしばしば報道で耳にする。
「できることは全部やる」
当たり前すぎて、アタマ悪いのかと思ってしまう。できないことはできないので、できないこととできることを説明しないと何言ってるかわからんということになる気がする。
勿論タイミングである時期までにできることは変化するだろうし、必要なことも変わってくる。
もし施政者が口にするならば「被災者が必要とすることはやるが、その範囲はここまでである」なんじゃなかろうか、と思う。
本当はできる範囲は主として予算が主な制約で限りがあるはずなのだ。
できることをやるのは当たり前すぎないかね。本当は限度がわかっているのにごまかすセリフが「できることは全部やる」ではないかと思うんだな。
あたかも、国家の予算を配分し実行するにあたって、自分の良心の発露のように言われてもなぁということである。医療でトリアージというものがあるように災害復旧にも当然それはあるだろう。
できないことをつらいけれど説明するのが本当の良心ではなかろうか。
つまるところ、できることもわかっていない、不明なので適当に口にしているのかもしれんが。




