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読書するデイ@鶴見20240110

年末にだいぶ長い小説を読み終えて、小説もまだ読めるのだと認識はしたが、何年振りかの小説でしかもある意味古典だから読めたのかもしれない。長い話だったのと考えるところが多くてアタマの中で整理ができていない。そのうち感じたところメモしようとは思ってはいる。

若い時というかハイティーンの時期というのは今考えるとおかしいくらいにいろいろ読んでた。小説も多かったように思う。浪人して大学入って小説の類は読まなくなったように思う。大学の講義のテキストはおよそアップデートされているとは言えないマル経のセンセのやら、ドイツ語落としたから進んだ独文のドイツ語古文とか、行間から眠気と拒絶感しかイメージできないものだったので、読むのは東スポにビッグコミック。社会人になって本って何?的な時間の使い方になって馬鹿になっていって今がある。

最近の問題は読書の時間はとれるのだが、見えなくなってきているということ。老眼はあまり意識していなかった数年前と異なり確実に進行していて、眼鏡なしだと難しくなってきている。
そんな中で横浜市の図書館のシステム更新で長期間借りられるからということで借りた重ための本をようやく読み始めた。
若いころのように量は読めないし、興味を持った本だけしか読まないのではあるが、ある程度専門的な分野の本を読むのは強く刺激を受ける。ああ馬鹿になっているなと感じられるからだ。

インターネットで便利になって知識は自分の脳の中に詰め込まなくても済む。必要な時にOKGoogleとお祈りすればいい。僕はあまり利用しないが生成AIで文書も絵も聞くところによればコンピュータのプログラムも作れるらしいので、人間はもっとクリエイティブなことに力を入れればいいらしい。
もしかすると人間の生き物としてプリミティブな部分の発露として何かが起きるのかもしれないが、多分そんなことはなくて、必死で勉強して練習した時だけブレークスルーは起きるのだと思う。

そういえばAmazon様にオーディブルとか言ってご丁寧に読み聞かせしてくれるらしい。言語で直接脳にインプットしていくというのはどうなるのか、よくわからないがひょっとするとえらいことになるような気もする。今のところ僕が読みたいような(聞きたいようなか)物はないみたいだ。おそらくナレーターが読むというところと版権の問題はあるだろうし、世間で求められるものが中心にならざるを得ないというのもあるだろう。

有限な時間の中で何を脳に書き込むのか。今更書き込んでもどうにかなるものでもないが、もう少しインプットすれば何か出てくるかもしれない。
そんなこと考えて老眼に頑張ってもらって活字を追う日でありました。

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